Introduction

私が女の顔を描くと同時も少女的な顔になつて了(しま)ふのである。

別に少女趣味と云うやうなはつきりした理由がある訳でもないが 私の好んで表現しようとする無表情、人間的な欲望の少しもないやうな表情が、空想と哀愁を心の糧にする純粋な少女の空気と自然共通するのではないか。

(『文藝』3巻11号 1935(昭和10)年11月 改造社より)

東郷青児

略歴 Biography

東郷青児肖像画

1897(明治30)年に鹿児島で生まれ、東京で育つ。少年時代に大正浪漫の画家・竹久夢二の下絵描きをするという経験を経て、ドイツから帰国したばかりの作曲家・山田耕筰(こうさく)から、西欧の新しい美術運動を学ぶ。

19歳で第3回二科展に初めて出品した《パラソルさせる女》で初入選、二科賞を同時受賞するという快挙をなしとげ、前衛画家として華々しくデビュー。

24歳でフランスに留学し、7年間の滞欧中にイタリア未来派の運動に参加したほか、ピカソや藤田嗣治ら当時の最先端を行く画家たちと交流。帰国後、西洋のモダンさと日本的な抒情をみごとに融合させた美人画により、独自のスタイルを確立。

その夢見るような乙女像は日本の高度成長期において、デパートやホテルの壁画、洋菓子店の包装紙、雑誌のカバーなど華やかな都市文化と密接に結びつき、昭和のイコンとなる。1978(昭和53)年、80歳で旅先の熊本にて逝去。

近年は筆の跡をほぼ残さない独特のなめらかな画法が、若い世代からも注目を集めている。

東郷青児の芸術 His art

早熟な未来派としてデビューし、キュビズムやシュルレアリズムといった最先端の芸術運動のスタイルを探求した果てに、「理屈なしに共鳴してもらえる絵を描きたい」と願うようになった青児。

その原点には、少年時代に出会った大正浪漫の画家・竹久夢二の存在があった。
恋愛を創作の源泉とし、憂いや切なさを持ち味とする作風や、文筆家としても多くの作品を残したこと、広告やプロダクトなど商業デザインの分野でも広く活躍したことーーふたりのスタンスは、どこまでも似通っている。

また、パリで親しくしていたピカソからは「自信の持てる色だけを使え」というアドバイスを受けたという(*1)。

当時、青児の絵の具箱には30色以上の絵の具が入っていたが、ピカソが当時、使っていたのは6色ほどだった。以降、抑制された色調を工夫していくことになる。

さらには、パリ留学末期に魅せられていたラファエロやボッティチェリといった優れた古典絵画にふれたことも養分となり、ついに彼ならではの、妖艶な花を次々と咲かせることになった。

その世界観は「美しいと云えば、限りなく美しい」と評されると同時に、「芸術とはいえない工芸品」という批判にもしばしば晒された。
しかし、ただマンネリズムに甘んじていたかというとそうではなく、水面下では新たな美を生み出すための、たゆまぬ努力と挑戦があったのである。

そうして青児式乙女は、日本の千手観音からエジプトの古代彫刻まで、あらゆるエッセンスを貪欲に取り入れながら、より官能的に、抽象的な美しさを増していくこととなった。

壁画を描く東郷青児

東郷青児の画法 His method

「天衣無縫の境地にたどりつく為には、まずは熟練工になるべし」(*2)--こんな言葉を残した青児。

磨き上げた工芸品を思わせる、なめらかな画肌の秘密は、「まず第一にカンバスの地塗、これを鏡のような地づらに仕上げる」(*3)ことから始まったという。

「地塗りしたカンバスというものは、少なくとも1年くらい寝かしておいて、古いものの順で使うのが理想的である」(*4)とも語っている。
そうして、何枚ものデッサンから自分好みの型を決定した最後の構図を、カンバスに図取りする工程へ。「地塗したカンバスはつるつるして描き悪いから、粉白粉かタルカムパウダーですべり止めをする」(*5) そして、4Bなどのやわらかい鉛筆でまずは下絵を描き、次に2Hくらいの硬い鉛筆で決定的な線を起こしていく。
これをシャボンで洗うと、やわらかい鉛筆の線が消えて、硬い鉛筆の線だけが残るのだとか。

ここから先は一度も中断せず、一気に最後まで仕上げるというスタイルで、1930(昭和5)年頃、同棲していた宇野千代によれば、「さつと一刷けにでも描いたもののやうに、早く描けた」(*6)と綴られている。

粒子が細かい絵の具、自ら調合した粘度の高い油など、それ以外にも細かな好みや、独自の工夫があった。
極め付きが、「香水を一滴たらして画面全体に夢見るような雰囲気をもたらす」(*7)という隠し技で、いかにもダンディーな洒落者であった彼らしいエピソードである。

青児の乙女像には、甘い花や果実の清廉な香りが、さぞ似つかわしかったことだろう。

東郷青児が見た世界 Cosmopolitanism

東郷青児の写真

海外が日本人にとってまだ身近でなかった戦前から、青児は思うままに世界を闊歩するコスモポリタンだった。

初めて異国の地を踏んだのは1921(大正10)年、24歳でフランスに留学した時で、パリを中心とした7年間に及ぶ滞欧生活を送る。
イタリアではマリネッティ率いる未来派に参加し、パリではダダ展を観るなど最先端の前衛芸術にふれるも、イズムばかりが先行する絵画不在の状況に失望。

ピカソや藤田嗣治などエコール・ド・パリの画家たちと親しく交流しつつ、次第に古典絵画に傾倒するようになり、ルーブル美術館へ日参する。

若き青児は、レザネ・フォル(狂乱の時代)と呼ばれ最も熱気にあふれていた頃のパリを、青春の苦しみや喜びとともに味わい尽くしたのであった。

戦後、二科会の再建に奔走した青児は、国際交流展という大仕事を成功させる。
1959(昭和34)年にサロン・ド・コンパレゾン(パリ国立近代美術館)で二科展を開催したのを皮切りに、メキシコ、デンマーク、ポルトガル、エジプト、アルジェリアで二科展を開催し、仕事を兼ねて毎年のように海外へ行くことが、画業に大きな収穫をもたらすことに。

ギリシャやイタリアのベニスといった都市の詩的なイメージを、美人画の舞台装置として投影することもあった。
1973(昭和48)年に発表した《王家の谷》はエジプトを訪れた時の収穫で、晩年の記念碑的な作品である。
1967(昭和42)年にアフリカのモロッコを旅した頃から、青児の興味はそれまでのモダンで都会的なものから、プリミティブなものへと変化してゆく。

70歳からは毎年のようにサハラ砂漠を訪れ、ジープとラクダを乗り継いで原住民とともにテント生活をしたという。
中でも青い衣をまとい、顔にも青いものを塗っているため“青の種族”と呼ばれる、美しいトゥアレグ族に魅せられていた。
この時期に、「あと10歳若かったら、砂漠に消えてしまいたい」という印象的な言葉を残している。

彼の魂は今も、うつろいゆく文明社会では見つけられなかった“永遠の美”をもとめ、旅を続けているのかもしれない。

年譜 Chronology

1897(明治30)年4月28日、鹿児島市下荒田町に生まれる。
本名鉄春。
1902(明治35)年5歳のときに一家で神戸、東京へ移住。
1914(大正3)年 17歳 3月、青山学院中学部を卒業。青児という雅号は、出身校の青山学院に由来するほか、「まだ喙(くちばし)も青うござんすと云ふ遜(へりくだ)つた気持」
『著書『カルバドスの唇』序文より)を込め、自ら考案したもの。
10月、日本橋に竹久夢二の店《港屋》が開店。
女主人の岸たまきに画才を認められ、彼女の依頼で夢二デザインの千代紙や半襟、便箋や封筒の絵の写しを手がける。
1915(大正4)年 18歳ドイツ留学から帰国したばかりの山田耕筰(こうさく)と知り合い、東京フィルハーモニー赤坂研究所の一室をアトリエに提供される。この時期、毎日聞こえてくる音楽に影響されて声楽家を夢見るも、試験に落ちて断念。
9月、日比谷の画廊にて初めての個展を開催。「わが国最初のキュービスト」として注目を集める。これを機に、生涯の師と仰ぐ有島生馬と出会う。
1916(大正5)年 19歳5月、京橋の読売新聞社ビルで第2回個展を開催。
10月、第3回二科展に《パラソルさせる女》を出品。初入選のうえ二科賞を受賞するという快挙をなしとげる。
1917(大正6)年 20歳本郷弓町のカフェー巴里で今東光と知り合う。宮坂普九との3人組で毎日のように遊び歩く。
この頃、本郷3丁目の燕楽軒に、のちに作家となる宇野千代が女給として勤め、千代と東光との仲をとりもとうとする。
1919(大正8)年 22歳1月、友人の原田潤を頼って大阪へ行き、最初の妻となる永野明代(はるよ)と知り合う。
6月、中山太陽堂の図案家募集に応募し、採用されるが2週間ほどで退社。
9月、二科会会友に推挙される。
1921(大正10)年 24歳6月、フランスに留学。有島生馬の紹介状を手に、未来派の主唱者マリネッティをミラノに訪ねる。
数カ月間、未来派の運動に参加するも、絵画不在の理論に失望してしだいに離れる。
11月、後を追って渡仏した明代が、パリで長男の志馬を生む。
1922(大正11)年 25歳ピカソのアトリエを訪ね、以後出入りする。マリネッティの紹介で、リヨンの美術学校の専科に学ぶ。
1923(大正12)年 26歳9月、関東大震災により日本からの送金が途絶え、セーヌの荷揚げ、壁画の下働き、公園の散水などあらゆる職業を体験。
1925(大正14)年 28歳パリのデパート、ギャラリー・ラファイエットの装飾美術部に勤務し、室内装飾、壁画などの素養を身につける。この頃、ルーブル美術館の古典絵画に惹かれ、日参する。
1928(昭和3)年 31歳5月、シベリア経由で帰国。
9月、第15回二科展に《サルタンバンク》《ノスタルジー》《青いエシャルプ》など滞欧作23点を特別陳列し、昭和洋画奨励賞を受賞。
この頃、運命の恋人・西崎盈子(みつこ)と出会うが、青児に妻子がいたため西崎家の反対にあう。
1929(昭和4)年 32歳中村修子という女性と一緒になり新居を構えるが、修子は翌月に失踪。その後、盈子とメスで首を切りガスを放って心中を図るものの、未遂に終わる。新聞、週刊誌を賑わす一大スキャンダルに。
1930(昭和5)年 33歳心中事件の顚末を小説の原案にしようと、取材に訪れた千代と再会し、そのまま同棲生活に入る。
9月、ジャン・コクトー著『怖るべき子供たち』を邦訳、白水社から出版。
1931(昭和6)年 34歳3月、二科会会員となる。5月、千代との合作『大人の絵本』が白水社から出版される。6月、『東郷青児画集』が第一書房から出版される。
1933(昭和8)年 36歳明代と協議離婚。
1934(昭和9)年 37歳9月、盈子と再会し、千代と別れる。
1935(昭和10)年 38歳盈子、「颶風(ぐふう)にのりて 情死未遂以来逢ざりし東郷青児のもとへかへる日」を『婦人公論』に発表。
千代、青児から聞き書きした心中事件の内容をもとに『色ざんげ』という作品を中央公論社より発表。現代恋愛小説の白眉として注目を集め、作家としての代表作となる。
1936(昭和11)年 39歳自著『手袋』が昭森社から刊行されるが、風紀上の理由で発禁処分となる。京都の丸物百貨店大食堂に壁画《朝》を制作。
1938(昭和13)年 41歳10月、二科展第九室出品者を中心に、前衛的な作家が集まり“九室会”を結成。藤田嗣治と共に顧問に推される。
1939(昭和14)年 42歳盈子と入籍、同年に娘のたまみが生まれる。
1940(昭和15)年 43歳10月、紀元二千六百年奉祝美術展の委員となり、《笛》を出品する。
1944(昭和19)年 47歳10月、二科会解散する。
1945(昭和20)年 48歳同志と共に戦時中に解散した二科会再建に奔走。
1946(昭和21)年 49歳9月、再建第1回の二科展が開催される。
1954(昭和29)年 57歳5月、第1回現代日本美術展に《午後》を出品する。
1955(昭和30)年 58歳7月、東京・有楽座の緞帳《鳩とリボン》を制作、完成する。
1957(昭和32)年 60歳5月、熊本・大洋デパートの大壁画《創生の歌》に対し第13回(昭和31年度)日本芸術院賞を授与される。第4回日本国際美術展に《バレリーナ》を出品、大衆賞を受ける。
1959(昭和34)年 62歳1月、銀座松屋で素描展が開催される。
5月、第5回日本国際美術展に《望郷》を出品、再び大衆賞を受賞。
1960(昭和35)年 63歳 3月、日本芸術院会員となる。8~9月『日本経済新聞』に「私の履歴書」を連載。
1962(昭和37)年 65歳3月、サロン・ド・コンパレゾン(パリ国立近代美術館)で二科展を開催、《野辺の花》を出品。
1967(昭和42)年 70歳1月、東郷青児画業50年記念展を銀座松屋で開催、代表作87点を陳列する。
1969(昭和44)年 72歳2月、多年にわたる日仏文化交流への貢献、および1967年(昭和42)のサロン・ドートンヌに出品した《干拓地》に対して、文芸勲章がフランス政府より授与される。
1972(昭和47)年 75歳5月、サハラに行き、トゥアレグ族とテント生活をする。
1975(昭和50)年 78歳1月、エジプトのカイロ国立ファイン・アート・ギャラリーで二科展を開催、《王家の谷》《モロッコの女》を出品する。
1976(昭和51)年 79歳4月、アルジェリアの国立カトル・コロン美術館で二科展を開催する。勲二等旭日重光章を受章する。7月、新宿駅西口の安田火災海上新本社ビル42階に“東郷青児美術館”が開館する。
1978(昭和53)年4月25日、旅先の熊本にて逝去、享年80歳。

<参考文献>

(*1)(*3)(*4)『美術手帖146』美術出版社 1958年(昭和33)年
(*2)(*5)『美術手帖』美術出版社 1950年(昭和25)年
(*6)『或る男の断片』宇野千代 講談社 1984(昭和59)年
(*7)雑誌記事「東郷青児訪問記」年代、出典不明(SOMPO美術館の所蔵資料より)

【その他】
『週刊アーティスト・ジャパン -分冊百科シリーズ日本絵画の巨匠たち- 49 東郷青児 』同朋舎出版 1993(平成5)年
「マリー・ローランサンと東郷青児展 』図録 2012年